歯ブラシの気持ち
作 ・ ぼーずまん |
1話〜10話 11話〜20話 21話〜30話 31話〜40話
41話〜50話 51話〜60話 61話〜70話 81話〜90話
91話〜100話 101話〜110話 111話〜120話 121話〜最終話
71話 ジャスト30分
シャワーの音が聞こえる。 すりガラスの向こう側では相変わらず肌色が動いていた。
「ツカサはいつも遅いのかい?」 何気なくジェシカに訊いてみた。
「必ず・・・ ってワケじゃないけど、歯みがきに関して言えばだいたい一番最後よ。 いつも12時過ぎね。」
「歯みがきに関して言えば?」
「彼は必ず眠る前に磨く人間なのよ。 それが習慣みたい。」
そういえばさっきもそんな話が・・・ まぁいいか。
いつの間にかシャワーの音が止んでいた。 時折、ちゃぽん・・・と水の音がする。
・・・正確には「お湯」なのだそうだが。 まぁ、さほど大差は無い。
そして入浴してちょうど30分経ったころ、カチャ、という音とともにガラス戸が開いた。
白い煙のような湯気が洗面所まで侵入してくる。
72話 ドライヤー
肩くらいまであった髪の毛を後ろにまとめたマナミがガラス戸の向こう側から顔を出した。
全身が濡れている。 まだ拭ききれていない水滴が肌を滑るように落ちていく。
ヒデキさんやヨウコさんとは違うバスタオルを手に取った。 これは一人に一枚あるらしい。
薄いピンク色のバスタオルで全身を拭きあげると、透明な宝石のような水滴は見えなくなってしまった。
彼女は鏡の前に立った。 髪をまとめてると若干印象が変わって見えた。
そのまま洗面台の、ちょうど俺たちから見て逆側に手の伸ばし、何かを手に取った。
初めて見るモノだ。 今までは死角になっていて、こちら側からは見えなかったようだ。
「ふぉっふぉっふぉ、ドライヤーじゃよ。 ワシらと同じく、ここの住人じゃ。」
ゴン爺は俺の心を見透かしたかのように親切な説明をしてくれた。
「ヨウコさんもヒデキさんも使ってなかったけど・・・」
「ヨウコさんは部屋に自分用のがあるみたいじゃのう。 ヒデキさんは髪が短いから必要ないのじゃろう。」
73話 エディーという男
ふーん・・・ 髪の長さとか関係あるのか・・・
それにしても初めて見る形だ。 いったいどうやって人間が使用するのか想像つかない。
マナミはまとめあげていた濡れた髪をほどいた。 かなり慣れた手つきに見えた。
やはりこれも毎日の習慣の一部となっている作業なのだろう。
「よお! あんたが新入りかい? 俺はエドワード。 ここじゃかなりの大ベテランさ。エディーって呼んでくれよっ。」
ドライヤーが話し掛けてきた。 かなり軽そうな口調だ。
「ああ・・・ はじめまして。 今日ここに来ました。よろしくお願いします。」
「なんだよなんだよ! 固い挨拶は抜きにして、気楽にやりなよ!」
「え? ・・・ああ。 じゃあヨロシクな、エディー・・・。」
「ふぉっふぉっふぉ、この男はワシよりも長くこの場所にいるのじゃよ。」
ゴン爺よりもベテランか・・・
そんな事を思っている間に、マナミはエディーのボディに付いているスイッチを押した。
74話 風とジェシカ
初めて聞く音だ。 ドライヤー独特の送風音が室内に響き渡った。
音だけではない。 マナミがエディーの角度を変えるたびに、こちらの方にまで温風が届いてくる。
クシを片手に、難しい顔で鏡の中の自分を見ながらマナミは髪を乾かしていった。
1〜2分くらいでその作業は終わった。 カチッとエディーのスイッチを切る音と共に風の音が止んだ。
再び静かな洗面所の空間に戻る。 「ふぅ・・・。」 誰に言ったでもなく、マナミのため息がもれた。
仕事の終わったエディーを元の場所に戻してから、器用に後ろ髪をまとめた。
「アンタの出番だぜ? それじゃぁヨロシク!」 遠くからエディーがジェシカに言ったんだ。
75話 女の仕事
髪をまとめ終わったマナミは、着てきた服の袖に再び白い腕を通した。
ゴン爺が言うには「パジャマ」という格好らしい。 服にもいろいろあるもんだ。
上下とも薄いピンク色のパジャマに包まれると、マナミは俺たちのいるコップに手を伸ばしてきた。
「行ってくるわね。」 落ち着いた口調でジェシカが言う。
1cmほどの白い帽子が彼女のブラシ部分に載せられる。
ジェシカの頭部がマナミの口に消えていった。 そしてブラッシングの音。
優しくて女性的なブラッシング。 俺の受けた印象はそんな感じだったんだ。
無意識にどうしてもヒデキさんの力強いブラッシングと比較してしまうのだろう。
そしてマナミの白く細い少女的な腕も、その印象に僅かなりとも影響しているのだ。
洗面所内には、ゆっくりしたリズムの心地よい音が繰り返し響きわたっていた。
76話 止まる時間
「俺もマナミに使われたかったねぇ・・・。」 セドリックがつぶやいた。
「あは♪ なーに今さら言ってんのヨ♪」 メリルの口調は慰めのそれではない。
ちょうど1分くらいか。 マナミはジェシカを口から取り出すと、泡状の歯みがき粉を洗面台の流しに吐き出した。
ジェシカのブラシは白い泡に包まれていた。
蛍光灯の光を反射して、泡はところどころ虹色に光っていたんだ。
蛇口から流れる水に洗われるまでの2〜3秒の短い間だったが、その虹色のきらめきは俺の時間を止めた。
少女と大人の女。 この2人(1人と1本か・・・)の作り出した「女性的な時間」。
そして仕事を終えたジェシカの艶やかな雰囲気に俺はみとれてしまったんだ。
呑み込まれたと言っていい。 不思議な感覚。
きっとそれは「羨望」なのだ。 それしかないのだ。 決して他の感情ではない。
そう思うことにした。 でなければ俺の中での微妙なバランスが保てない。
・・・一瞬、コジロウが頭をよぎった。
うがいと蛇口から流れる水の音が洗面所内を支配した。 無理矢理に俺はその音に耳と心を預けたんだ。
77話 動きだす時間
再び動き出した時間はまた止まることとなった。
流水で洗われて濡れたままのジェシカが、俺のすぐ隣にトン、と戻されたのである。
グリップの下の方が微妙に触れている。 もし俺が人間だったら心臓がパンクしそうになっていたかもしれない。
「ふぅ・・・ ただいま。」
ジェシカの落ち着いた声が聞こえる。 すぐ近くから。
心、ここにあらず・・・ 自分で分かっているんだ。
初めての感情が俺の心を支配する。 ダメだ。 逃げなきゃ。 ダメだ。 逃げ・・・
「あ・・・ お、おつかれさん。」 やっと絞り出した声は、我ながらとても情けないものとなった。
「・・・? どうしたの?」 ジェシカの残酷なまでに冷静な対応で、少しだけ我を取り戻せた。
「ん? いや、ジェシカの仕事を見るのは初めてだったからさ。」
「次はアナタの番よ。 がんばってね。」
心の中を悟られないように、俺は冷静を装って目線をマナミの方へ移した。いつの間にか水は止まっている。
うがいを終えたマナミは鏡に向かって何かやっていた。
両手で頬を左右に引っ張ると 「う〜ん・・・まだまだだなぁ。」 と俺にはよくわからない独り言をつぶやいた。
78話 オンナゴコロ
「なにをやってるんだろう?」 あえてジェシカではなく、メリルに訊いてみる。
「ホントに年頃のオンナのコの気持ちとか知らないのネ♪」 ・・・案の定、一蹴された。
79話 逡巡
きっとメリルには俺の心の内に起きた衝動的な変化なんて分からないだろう。
いや、気付かれても困る。 だからこそメリルに話題を振ったんだ・・・ ほぼ無意識に。
それにしても言い方ってものがあるだろう。 まぁ、メリルらしくて良いのだけれど。
「ふぅ・・・。」 マナミが再び漏らしたため息は、湿度のある空間に響いた。
「オトナの女ってヤツに憧れてるだけだろ?」 セドリックがつぶやくように言った。
「でしょうね。 憧れの先輩はもちろん年上な訳だから・・・ きっと認められたいのよ。」
ジェシカが言う。 でもそれは・・・
今の俺にも言えることなのではないか? 俺もジェシカに認めてもらいたいという気持ちが・・・
いや、忘れよう。 俺とジェシカは仲間だ。 戦友のような関係だ。 壊したくない。
・・・彼女の心の中にはコジロウがいるんだ。 でも・・・
マナミが明かりのスイッチを切る「カチッ」という音が聞こえるまで、程度の低い葛藤は続いた。
また暗闇だ。 メリルとセドリックが何か言い合っているが、俺には届かない。
2人の世間話的な言い合いに首を突っ込めるほど、俺の心にゆとりは無かった。
なぜなら・・・ ジェシカはまだ俺に触れたままだったんだ。
つぅ・・・と小さな水滴がジェシカの体を滑って落ちていく。 暗闇の中、俺にはスローモーションにうっすらと見えた。
その水滴は俺のグリップの、ちょうどジェシカと触れ合っている所に落ちてきた。
一瞬の冷たい感触。 それと同時に、心を鋭い針で貫かれたような感覚が襲った。
俺が触れた初めての水は・・・ ジェシカのボディを滑り落ちてきた凶器のような水滴だったんだ。
80話 罪悪感
なんなんだろう、この罪悪感は・・・
ジェシカに対してなのか? それともコジロウに・・・?
数秒の間に考えをまとめようと、俺の思考回路は回転をしていた。
もちろん、こんな状態でまともに統一された結論など出るわけがない。
あからさまに回転は鈍っていた。 結局「両方」なのだろうと自分自身を納得させる。
室内の湿度はあまり今の俺に気持ちの良いものではなかった。 そして無音。
いや、メリルがセドリックに何かを言っている。 バスルームからは水滴の落ちる音が微かに聞こえる。
マナミが階段を上る音がする。 エディーは鼻歌を歌っている。 空気が微かに流れている。
決して無音ではなかった。 まるで俺だけが違う空間に行ってしまっていたようだ。
「おい・・・ おいってば!」 ハッと我に返る。
「お前はどう思う? 俺の意見はおかしいか?」 セドリックは俺に訊いていた。
「え? あ、ごめん・・・ 何の話だっけ?」
「おいおい・・・ お前が変なコト言うからメリルが熱くなってるんじゃないか。」
「ちょっと! 熱くなってるのはセドリックの方じゃない! これだから男って!」
どうやら自然と元の空気に戻れそうなタイミングらしい。 おかげで落ち着いた。
そして俺たちは再び階段の音がするまでの小一時間、他愛も無い恋愛話で盛り上がっていたんだ。
Project of YONENJO