〜 偉人たちの素敵な足あと 〜
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第12回 海原 坊山 〜 試行のメニューで失敗を続けた美食家 〜 |
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1954 ・・・ 生後数ヶ月で母乳の味にいちゃもんをつける 1955 ・・・ 離乳食にいちゃもんをつける 1960 ・・・ 学校給食にいちゃもんをつける 1979 ・・・ 結婚後、息子の試郎を授かる 1980 ・・・ 女房の手料理にいちゃもんをつけすぎ、離婚 2006 ・・・ 試郎との料理対決の最中に死去 |
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1954年、東京の下町で中華飯店を営む夫婦の間に生まれた。
彼はワンパターンな母乳の味に我慢ができず、母親の乳房に東南アジアのスパイスを塗って吸っていたという。
そう、「試行のメニュー」を追い求める彼のスタイルは乳児時代にすでに完成されていたのだ。
ある日の夜、営業を終えた夫婦は厨房で離乳食をどうするか相談していた。
そこに四つん這いの坊山が現れ、両親にこう言ったという。
「ふん、本当の美味を知らない人間に赤ん坊が心から求める離乳食は作れんよ。」
当時、坊山は生後約1年。 彼の考案した離乳食はチンジャオロースを細かく刻んだモノである。
「ピーマンの苦味を最大限に生かすのだ。そうすればこれからの人生の苦味にも耐えられるというもの。」
さすがは坊山である。 この離乳食があってこそ、あの海原坊山が出来上がったのだ。
坊山6才。 小学校に入学した坊山は学校の給食にさっそく難癖をつけた。
「給食のおばちゃんを呼べ!」 は、もはや名言である。
「このワシにこんなモノを出すとは・・・ワシが海原坊山と知ってのことか!」
こうして彼は4年生の時に「美食クラブ」を学校内に立ち上げる。
「パンを牛乳につけて食べた事の無い人間は食について語る資格は無い。」
もちろん正当なクラブと認められる事はなく、たった1日で解散した。
彼は10代〜20代の大半を美食の研究に費やす事となる。
25歳の時、「台湾料理占い」の著者である妻と結婚。 男児を授かる。
坊山は美食にチャレンジし続けて欲しいという願いを込めて「試郎 (しろう)」と名付けた。
ところが愛妻の手料理全てに文句を言い続ける毎日だったため、妻が耐え切れずウクライナに帰国。
父に恨みを抱く試郎 (生後4ヶ月) ・・・
こうして坊山と試郎の長い戦いは始まった。
父がカップラーメンは2分半が美味いと言えば、息子は2分40秒が一番だと言い張る。
そんな争い・・・世界一低俗な料理対決は幾度となく繰り返され、2人の間の溝を広げていった。
坊山52歳。 彼は息子との最終決戦に臨んでいた。
下関で捕れた新鮮なトラフグを調理する坊山。 もちろん無免許である。
「許可や国境の無い世界にこそ本当に美味い料理が存在する。」
この言葉を最後に海原坊山はこの世を去った。 味見の最中であったという。
ちなみに息子の試郎は繁華街の怪しい外国人から買った白い粉を隠し味に入れ、これより数年間を塀の中で過ごす事となった。
(参考文献 おいしん坊 1巻〜81巻)
まな板はキャンバスであり、包丁は筆である。
そして調理場はキャバクラよりもスリルに満ちたアトリエだ。
〜 海原 坊山 〜
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